備忘録

『建築雑誌』2011年1月号、特集「未来のスラム」
http://jabs.aij.or.jp/

はじまりは本誌2010年二月号「特集・建築有象無象」であった。 スチュワート・ブランドの最新動向をあつかった座談を計画した。 そこに出席いただいた建築家日埜直彦氏がマイク・デイヴィスによる『Planet of Slum』 2006 (邦題『スラムの惑星』2010)という本を持参したのだった。 それは、スラムによる「都市」化が世界各地で進行している様子を描いた衝撃的な著作であった。 その傾向をどう受け止めるか。 計画的都市とスラムの二項対立はもはや生産的ではないとしたら、代行しうるビジョンがあるのか。 その問いかけが本特集「未来のスラム」である。さらにまた、実はこの茫漠とした世界最大の都市・東京こそが、すでにこのようなスラム化の過程を経てきた歴史的な都市なのではないか。
 スラム/未来/東京......2011年を始めるにふさわしい問題提起号である。レファレンスとなる諸論文も多数収録した。編集担当は、日埜直彦委員、林憲吾委員とし、後見人に伊勢崎賢治幹事をすえた。
( 編集長:中谷礼仁


未来のスラムに向けて
Toward the Future of Slum
 20世紀を通じて世界は猛烈に都市化した。都市社会学者のサスキア・サッセンが言うように、グローバリゼーションは20世紀の国家形態としての国民国家間の世界秩序から、国家の枠を飛び越えてグローバライズした空間に都市がネットワーク化されるような世界秩序をもたらした。そのような意味で都市が主体的位置を確立し、高度に戦略的な資本循環の基盤となる一方で、剥き出しの身体としての人間が地方から都市に流入し、そこで生存環境を獲得するためにひしめき合う。前者の事態がいわゆるグローバル・シティ化であり、後者の現場が端的に言ってスラムである。
 こうした両面を持つ都市化が、過去半世紀を通じて進行し、現在なお加速している。20世紀に世界中に浸透し、われわれも暗黙に前提としている近代都市計画の視野は、このような事態の変容において問い直される必要があるだろう。そもそも都市計画はスラムを克服するために出発したと言っても過言ではなく、グローバル・シティという概念自体、国境を越えた人口流入を前提として含む。近代国民国家とそのなかの近代都市を前提とした状況把握はもはや成立しない。
 そうした都市観は、先進国において建前的に通用し続けているがすでに内実は変質しており、そして後進国において都市をコントロールする規範的機能を失っている。そうしたなかから都市生態学という考え方が現れた。それは都市をある種の生態系と捉えようとする。規範的有りようとそこからの偏差において都市を認識するフレームを棚上げし、いったいどのようにして都市が作動しているか、その動態を構成論的に捉えようとする。自ずから都市の生態は多様だろう。グローバル・シティの生態、新興メガシティの生態、その両者が連結し合いネットワークをなしているはずだ。
 一方に切迫する都市の限界的様相があり、他方に都市観の更新を迫る状況と取り組みがある。こうした状況の狭間にわれわれは、東京を発見する。歴史的事実として東京はスラムを内に抱え込んでいた。それがどのようにしてそこから脱し得たのか。また、決して近代的な都市観から成功例とは考え難いこの都市が、どのようにして相応に機能的な都市を形成し得たのか。遠大な問題ではあるが、オルタナティブなビジョンに向けて接近を試みたい。     
( 日埜直彦 )


第 二 部
 都市計画の視線とは別の角度から、都市をその動態においてとらえる試みとして都市生態学と称される問題設定がある。前者が都市を分析的に把握し、あるべき姿を実現しようとするアプローチだとするなら、後者は目の前に現にある都市はどのように機能しているのか、総合的かつ構成論的にとらえようとしている。自然的または人為的物質循環とそれに伴うダイナミクスから、無形の社会的な生活様式と都市文化に至るまで、求められる水準は多様である。第一章が示すように、都市化におけるマッシブな変化は小手先の対応で御しきれるようなものではなく、規範的意識から都市の理想を掲げる意義はむなしい。正しい都市と正しくない都市があるのではなく、ともあれ機能している都市のその実相に迫り、その機能を円滑にする介入の手法が求められるだろう。
( 日埜直彦 )


第 三 部
 東京はかつてスラム問題に悩まされていた。このことを今実感することは難しい。だがプロレタリア文学に描かれたガリ版刷りとオルグの街、あるいは『太陽のない街』のような映画に描かれたあの都市の姿は、近代化の過程で派生したスラムの姿にほかならない。その東京は今スラムの影をいちおう拭い去り、そのかわりに延々たる稠密な郊外に包まれた。東京圏に住まう3,700万人は、自らの住む街にさして誇りを持っているわけでもなく、さりとて危機感を抱くほど東京に問題を感じているわけでもないだろう。だが、むしろそのように一応機能し続けていること自体を快挙とことほぐべきなのかもしれない。戦後半世紀以上を経て東京はある種の成熟に入っているとしたらそこで現れてきた自己組織化の様態とはどのようなものか、探ってみたい。そのことはメガシティ化を遂げた都市がどのような状態に至るのかを示すひとつのケーススタディーでもある。
( 日埜直彦 )

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―

スラムの惑星―都市貧困のグローバル化―