吐き気がするほどロマンチックだぜ〜ブラック・アトランティック vs 神戸大学のザ・スターリン

スペシャルウィーク(馬じゃないよ)突入を前にして、帰路は気づいたら淡路という今日この頃です。
近くで近々イベントがあります。100年に一度あるかないかの一大事、壇ノ浦、桶狭間関ヶ原の合戦、北斗と南斗の宿命の対決、セル vs Z戦士にも比すべき、一大スペクタクルです。

さあ、10月最初の休日は神戸へ行こう!!

何で宣伝してるんやろ…。

以下、転載。

神戸大学国際文化学研究科主催 第12回国際シンポジウム

ポストコロニアリズムと知識人−「黒い(ブラック)大西洋(アトランティック)」からの声

日時 2007年10月6日(土)13:00〜17:00(受け付け開始12:00)、会場 神戸大学百年記念館
講演1「<知識人は存在しない>あるいは思考としてのミメーシスについて」(市田良彦神戸大学教授〕)
講演2「文明主義に抗して」(ポール・ギルロイ〔ロンドン経済政治学術院(LSE)〕教授)

講演3「オリエンタリズムの起源:ポストコロニアリズムと知識人の位相」(本橋哲也〔東京経済大学教授〕)
総合司会 小笠原博毅〔神戸大学准教授〕


シンポジウムの趣旨
 グローバル化時代ともポストコロニアル時代とも言われる社会・文化状況の変化のなかで、西欧近代を中心とする<知>の枠組みがどのような再編を迫られ、またいかなる新たな可能性を示唆しているのか。なかでも、<知>の担い手であり、表象者でもある<知識人>のあり方が鋭く問われています。<知識人>とは誰か。その言説や活動はどのような社会的・政治的意味をもつのか。本シンポジウムでは、カルチュラル・スタディーズの世界的牽引車として知られる社会理論家ポール・ギルロイを迎え、現代における<知識人>のあり方について掘り下げて検討したいと思います。

 ギルロイの主著である『黒い大西洋』によれば、アフリカからの離散を余儀なくされた奴隷の子孫たちは、自分たちにサバルタン(被従属階級)の地位を強いてきた西欧近代の語彙・倫理・政治を、ときには徹底的にあらがい、ときにはそれを受け容れながら、独特の様式で換骨奪胎してきました。つまり、西欧近代を支えてきた国民国家市民的公共性といった装置が、じつのところきわめて暴力的な統治システムであったとすれば、西欧世界との複雑な交渉を通じて形成された「黒い大西洋」が、西欧近代的な統治を巧妙にすり抜けるもう一つの公共圏であったことを明らかにしています。近代の思考枠組みに拠りながら、西欧中心の紋切り型の図式とはまったく異なる形で、近代そのものを語りなおす可能性を示した点に、氏の研究の画期的な意義があると言ってよいでしょう。

 はたしてギルロイは、スピヴァクやサイードの系譜にそのまま連なる「ポストコロニアル知識人」なのでしょうか。それとも、それとは異なる新しいタイプの<知識人>の方向を模索しようとしているのでしょうか。これは、たんにギルロイの研究上の位置づけに向けられた問いではありません。むしろここで問われているのは、ポストコロニアルな思考にあって、サバルタンや知識人にどのような位置づけを与えられているのか、ということに他なりません。

 本シンポジウムでは、『黒い大西洋』刊行以降のギルロイの思考の展開も視野に入れつつ、また「ポストコロニアル世界と<知識人>」という問題設定そのものをも議論の俎上に載せながら、今日における<知識人>の意味を再検討し、国際文化研究の新たなパラダイムの構築を目指したいと考えています。


講演概要

市田良彦(いちだ・よしひこ)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授
<主な著作>
ランシエール−新音楽の哲学』白水社 2007、『非対称化する世界−<帝国の射程>』(共著)以文社 2005、『闘争の思考』平凡社 1993


〈知識人は存在しない〉あるいは思考としてのミメーシスについて
二〇世紀以降、知識人の形象として広く議論されてきたものとしては、我々は基本的に三つを知るのみである。まず何よりも、サルトルに代表される歴史の進路を人々に指し示す存在としての普遍的知識人。フーコーはそれに代えて、何らかの専門性から出発して社会全体に向かい発言する特定領域の知識人という形象を提出し、自らの政治活動もそれによって説明した。三つ目の形象はマルクス主義の歴史のなかに埋もれてしまった感のある有機的知識人である。グラムシはこの知識人を、労働者たちのただ中にあって彼らの階級意識を形成させる触媒の役を担う存在と規定したが、共産党がやがてそれを党そのものと同一視していったため、この形象はマルクス主義の衰退とともに廃れていった。ポール・ギルロイの『ブラック・アトランティック』はそれを今日に甦らせたもの、とひとまず位置づけることができる。そこでの有機的知識人はもはや「文字」を操ることさえ要件としない黒人ミュージシャンたちであり、彼らが形成の触媒となるのは階級的性質ではなく「文化」的共同性である。
こうした布置へ二つの問いから介入したい。まず、フーコーは一方において特定領域の知識人について様々に語っておきながら、他方では「私は知識人などというものに会ったことがない」とも言っている。これをどのように受け止めるべきか。第二の問いは、階級を文化に置き換えることにより何が変わり/変わらないか、である。そこで構成される共同性の質は同じなのか、異なるのか。二つの問いを結びつけることによって導き出されるのは、第三の根本的な疑問である。普遍的であれ専門家的であれ有機的であれ「知識人」は実のところ一つの同じ〈倫理的〉共同体観を共有しており、一つの同じ〈排除〉を執行するのではないのか。社会的アイデンティティの「揺らぎ」によって定義される共同体−共同性であり、その「揺らぎ」を招来する普遍的能力としてのミメーシス(模倣)の排除である。


Paul Gilroy(ポール・ギルロイ
ロンドン経済政治学術院(LSE社会学部教授

<主な著作>

After Empire: Melancholia or Convivial Culture?, Routledge 2004、Between Camps: Nations, Cultures and the Allure of Race, Allen Lane 2000、The Black Atlantic: Modernity and Double Consciousness, Verso 1993(『黒い大西洋−近代性と二重意識』上野俊哉毛利嘉孝鈴木慎一郎訳 月曜社 2006)


文明主義に抗して
近年、安全保障への要請が高まり、安全保障優先主義(セキュリトクラシー)が現われつつあるが、文化の分析はいまやこうした動向にすっかり乗っ取られ、身動きがとれなくなっている。そうしたなかでカルチュラル・スタディーズは、社会的・政治的な摩擦や軋轢のありようを読み換え、これを新たな布置へ転換するという課題に正面から取り組んできたけれども、結局のところただ機械的に文化を解析する分析形式に後退してしまっている。つまり、ネーションの枠組み、文化、社会変容という三者の織りなす関係を一九世紀的な観点からとらえつつ、これにたいして旧態依然たる処方箋を持ち出してくるのである。こうした分析手法はヨーロッパやアメリカできわめて大きな影響力をもつようになっているとはいえ、やはり深刻な問題をはらんでいる。私としてはこのような流れにあらがって、これに取って代わる新たな論理を提示しようと思う。何よりもまず主権というものをポストコロニアルな視座からとらえなおすこと。そして有象無象の輩たちが怪物ヒュドラのように増殖しながら抵抗の力を示しつづけてきた歴史に、あらためて光を当てること。私のいう代替的な論理が想定しているのは、この二つの視点を組み合わせることのできるような分析である。文明主義的思考にはいっさいを暴力的に包摂する新植民地主義的な主張が含まれているのだとすれば、そうした主張を根底から掘り崩すような分析手法は、いま述べた二つの視点の組み合わせからしか生まれないだろう。ただしこれはたんに陸と海とをめぐる議論ではない(つまり陸と海の分割や占有という観点から世界史をとらえる類いの議論とまったく同じというわけではない)。むしろこれは、文化というものをそれ自体どう考えるべきかという、文化観念の解釈の主導権をめぐる闘争にほかならない。文化的差異は摩擦や軋轢を生むだけではないかと不安に思う人もいるだろうが、もしもそれを超える何かを生み出すような文化的差異のありように触れたいと思うのならば、そして多文化(マルチ・カルチャー)こそが落ち着く先としてふさわしいというのであれば、私たちに必要なのは、怪しげな自説の弁明を余儀なくされるような窮地に文明主義的思考を追い込むことなのである。


本橋哲也(もとはし・てつや) 
東京経済大学コミュニケーション学部教授

<主な著作>


『ポストコロニアリズム岩波新書 2005、『本当はこわいシェイクスピア講談社選書メチエ 2004、『カルチュラル・スタディーズへの招待』大修館 2002、オリエンタリズムの起源――ポストコロニアリズムと知識人の位相
新自由主義新保守主義、文明主義のように昨今グローバルな規模で私たちの身体と心性を囲繞するイデオロギーがなぜこのように成功しているのか?そこにはいわゆる「勝ち組」である人びとの経済的支配力の強さや、それを目指す人びとに対する社会的呪縛力というだけでなく、現実にはそのようなイデオロギーによってもっとも痛手をこうむるはずの人びとがそれを支持してしまうという、歪んだハビトゥスの構造があるからではないだろうか?本発表ではこのような文化の下部構造を検証するために、反知性主義という知識人バッシングの背景を探ってみたい。
最初に、現在の日本でもアカデミズムのなかで定着したように思われながら、「市民権」を得たとはとうてい言いがたく、日本の脱植民地化にほとんど貢献できていない<ポストコロニアリズム>のひとつの原点とされるエドワード・サイードの『オリエンタリズム』に対する様々な批判と擁護を再検証する。そのうえでそういった批判をアカデミズム内部の勢力争いにとどめず、私たち自身の身体と心性の脱植民地化に向けた試みに繋げるために、知識人論の文脈のなかでそれらの批判に応答してみたい。その際サイード自身の知識人論だけでなく、とくに最近のジュディス・バトラーとガヤトリ・スピヴァクによる表象メディア批判と人文学の再興に関する議論を参照する。
オリエンタリズム批判を、サイードの原初の意図である私たち自身のハビトゥスの脱植民地化へと向けたプロジェクトして再活性化するためには、そのようなポストコロニアル状況における知識人の役割の再検討が欠かせないと考えるからである。 

よいしょの要素など皆無。ガチンコ対決必至です。東京では絶対に見られません(イヤな言い方だけど…)。見逃したら一生の損です。