中田統一「大阪ストーリ」(1994/日)

映画の勉強の為にイギリスに留学している監督が、3年ぶりに大阪の実家へと戻り、自分の家族にカメラを向けるところからこの映画は始まる。難波で金融業を営んでいる在日韓国人の父、その父の経営するパチンコ店を手伝いながら苦労を重ねてきた日本人の母。一見よくありそうな在日の家族。だが父には韓国にもう一つの家族があった…。監督自身もカミングアウトしたい“ヒミツ”を胸に抱きながら、複雑な事情がからみあう自分の家族の実像をユーモアを交えながらカメラに収めていく、ドキュメンタリー映画。(1994年シカゴ国際映画祭ゴールド・ヒューゴ賞、1994年バンクーバー国際映画祭審査員特別賞、1994年国際学生映画祭グランプリ 他)

http://cinema.intercritique.com/movie.cgi?mid=5083


一口に言ってしまえば、監督自身を主人公とした、ある在日コリアンの家族へのエスノグラフィーによるドキュメンタリー映画なのだろうけども、それよりもある大阪の家族についてのドキュメンタリー、あるいは物語とい側面が色濃いのではないだろうか。確かに、在日コリアンの多くが生業としている「金貸し」や「パチンコ」の現場や、商店街の様子、先祖の供養の様子が描かれるなど、文化人類学的なエスノグラフィーの手法の影響を指摘することは容易いだろう。しかしむしろ、個人史や家族史を通じて、在日コリアンという要素が浮かび上がるという方が適切だろう。監督の父親はどう見ても、頑固でどことなく理不尽でマッチョで、見栄っ張りな「大阪のおっちゃん」やし(笑)。


実際、家族の生活や仕事の基盤は日本、なおかつ大阪にある。何代も続く系図を誇らしげに見せたように、在日コリアンとしての血筋やアイデンティティへのこだわりを度々見せる父親も、それは認めざるを得ない。「故郷」という本来のルーツから離れているが故に、父親によってより濃縮されて表れた在日コリアンとしてのアイデンティティの現場を、この映画からは度々垣間見ることができるだろう。


作品の中で気になったことは、父親は韓国にいる時のほうが楽しげな姿を見せるということだ。実際に、韓国での先祖供養のシーン周辺では、在日コリアンとしての自分と日本との関わりという一筋縄ではいかないような話題を、父親は饒舌に語ってみせる。「金貸し」という生業の都合上、周囲の人びとになかなか信頼が置けないためなのかもしれない。しかし、韓国では愛人との間に2人の子どもを設けることで、本来ならば安住の場であるはずの家族との関係も微妙なものにしてしまう。妻である監督の母親に対する態度は刺々しいし、それに対する不満も隠されることはない。子どもたちとの関係も同様に微妙なものだ。父親としての威厳を失いかねないのに、愛人との間に子どもまで設けるほどの「韓国」とは、父親にとって何なのだろうか。日本での立場をますます苦しくしてしまいかねないのに何故、「韓国」では楽しげなのだろうか。


特に妻への対応に見られるように、日本で暮らす家族を否定することによって、在日コリアンの男性として、あるいは父親としての立場が維持される。日本での家族に見せつける傍若無人・頑固・理不尽な(=マッチョな)父親像は、父親にとって自分が在日コリアンであり続けるためには必要不可欠な振る舞いに他ならないと言えよう。日本にいる家族たちにとの関係を微妙にするような愛人とその間に設けられた子どもたちの存在もまた、日本の家族に対する刺々しい態度そのものであり、それに対して不満をぶつける家族たちを否定的に扱うことでもまた、彼の父親として・在日コリアンの男性としての立場が保たれる。否定し続け、自らのアイデンティティを保持するために、日本の家族は常に存在しなければならないのだ。


主人公としての監督はそんな父親に対して、父親にとっては容れられないような(結婚して家業を継ぐよう、父親は主人公に迫っている)、ゲイとして自分をさし示す。それによって、父親が自らのアイデンティティを保つべく、家族のとの間に結んできた否定的な関係にくさびを打ちこんで見せる。家族を否定することで成り立ってきた(実際に弟は父親の家業を継ぎ、その後を追おうとしている)父親、あるいは在日コリアン男性というアイデンティティが再生産されることが拒否される。


例えば「GO」に見られるように、在日コリアンを扱った作品の多くが、「強い男」と「守られる女」という安定的で固定的な関係に収斂させられ、在日コリアンというアイデンティティを硬直したものとして描き出してしまうのに対して、「大阪ストーリー」はそうした結末を迎えることを拒否する。それによって、在日コリアンとしてのアイデンティティがけっして固定的なものではなく、そこには様々な境界(民族、人種、ジェンダー、国籍…etc)が孕まれていることを巧みに描き出しているのではないだろうか。