ある日のサッカー観戦

ワールドカップの本大会そのものは終わってしまったけど、余韻がどうもさめやらない。そりゃこんなん見てしまったらね。。。



ポポポポポ( ゚д゚)゚д゚)゚д゚)゚д゚)゚д゚)ポカーン…


何億人もの人がTVの前で唖然。。。たぶん。決勝戦で、あのジダンの堪忍袋の緒が切れてしまったことに、何かを感じ取らなかったものなどおるまい。おそらく。


ジダン:社会奉仕活動3日間および罰金7500スイスフラン
マテラッツィ:2試合出場停止および罰金5000スイスフラン


スイスフランって日本円でいくら?


という疑問はさておき(ちなみに本日のレートで約94円)、一応、穏便な結末か。それでも、多くの人びとにとって、後味の悪さがどことなく残るものやろう。あまりの事態の大きさと複雑さに対して、もはや、なすすべのなし。下された処分の絶大なまでの穏便さは、それを如実に示しているのかも。


この事件について、面白かった記事がありましたので、以下にリンクを。


http://blog.drecom.jp/alternativelabor/archive/14


波紋はあったが穏便に済んでよかったよかった。。。では済まないのがこの話題。むしろ、済んでもらっては困るし、済ましてはならないだろう。で、やっぱり済んでない。

加害者」のジダンは3試合の出場停止(引退のため、3日間の社会奉仕活動に振り替え)と罰金7500スイスフラン(約70万円)。一方、頭突きを受けたマテラッツィも、挑発する言葉を再三浴びせたとして、2試合の出場停止と、5千スイスフラン(約47万円)の罰金を受けた。
 FIFAの「量刑」について、伊選手協会会長は「暴力と挑発行為は雲泥の差がある。ジダンが5試合、マテラッツィは1試合の出場停止が妥当」と批判。一方、フランス協会会長は「サッカーの世界の知性を示した合理的な裁定だ」と評価した。英タイムズ紙は「頭突きは姉への侮辱より1090ポンド(約23万円)しか悪くない」と皮肉り、デーリー・メール紙は「ゲームの一部として、挑発的発言は許容されてきた」と報じた。
 FIFAの懲罰規約では、選手が他の選手に侮辱的な発言をした場合は最低2試合、人種差別、宗教などにかかわる発言には最低5試合の出場停止を科している。
 しかし、これまで「言葉での挑発」に対し、厳格な適用はされてこなかった。今回のケースが前例となって、今後、FIFAがどう対処するかは新たな課題だ。
 マテラッツィの発言に人種差別的な言葉は認められなかったが、昨今の欧州サッカー界では黒人選手らに対する差別発言が深刻化している。人種差別反対を掲げるFIFAが厳しく対処していく可能性もある。
朝日新聞、2006年7月25日、朝刊)

「挑発はゲームの一部」 英紙、FIFA処分を批判 2006年07月21日14時19分

 国際サッカー連盟(FIFA)が、ワールドカップ(W杯)ドイツ大会決勝でジダン(フランス)の頭突きを誘う侮辱的発言をしたマテラッツィ(イタリア)を処分したことに対し、21日付の英紙は「プロのゲームの一部として、挑発的発言は受け入れられてきた」(デーリー・メール紙)と批判的に報じた。

 タイムズ紙は、両者の罰金の差額を挙げ「頭突きは、姉への侮辱より1090ポンド(約20万円)分だけしか悪くない」と指摘。今回のマテラッツィの処分は「英国のさらに気性の激しい選手のためになる動き」と皮肉を交えて伝えた。
 「FIFAは、太古からサッカーの一部だった基準や慣習を窓から投げ捨てた」。ガーディアン紙(電子版)は、マテラッツィの発言が明らかになっていない中、どのような発言が今後処分の対象となるのか不明確だと批判した。(共同)

ふーん。。。要は処分に納得がいかんということか。。。「挑発はゲームの一部」、人種に関わることでなくてよかったということね。ふーん。。。個人的にはガーディアンからのパクリがなんとなく気になるのだが。。。


てか、「興味ない」とか「どうでもいい」とかいうのをよく見る気が。そうは言いつつ、ワールドカップの収穫とか総括とかしても、あれがよかったこれがよかったとか言っても、結局行き着くのはところはその「どうでもいい」ことなんやろけどね。


で、気になる点をいくつか。



①暴言の詳細が明らかになる前にいちはやく、「人種」や「移民」に話題が及んだ。ピッチ上でのレイシズムの問題について、誰もが自覚的に、薄々と感づいていたにも関わらず、このような事態を招き、(今更ながらに、慌てふためくかのように)ようやく議論の俎上に上ったこと。


②「人種」や「移民」に関係ないから良かったというわけではない。暴言がむしろ、「女性」に関するものであったことが問題なのでは。移民や社会的なハンデを持つ者への中傷、あるいはレイシズム的な言葉が、「女性」的な隠語へとシフトしていく傾向にあるのでは。例えば。移民やムスリムが「娼婦」と結びつけられるように。


③上記に関して、「あたりまえのこと」として済まそうとする(とりあえず日本の)サッカージャーナリズム。「ジダン」。「決勝」。これを見るだけでも、軽くは済ませないだろう。サッカーが行われている場が多く人びとのまなざしの重なり合う場であること。そうした視線のみならず、自分のルーツ、社会的な立場、人種…etc、選手自身がこれらを引き受けている存在であること。また、そうした様々な要素どうしの摩擦が、ピッチの上で必然的に起こること。そうした意味で、政治的な場であるということ。こうして見せつけられた、サッカーを取り巻く厳しい現実を拒否する態度として、「あたりまえのこと」という反応があるのでは。



というか、なんでこの期に及んで(あれだけムチャクチャ言うてきた)ブラッターの事なかれ主義に組すんねん(笑い)という疑問は脇に置くとしても、端的に言って、語る術がないと言うことは確かなはず。


おそらく、ここで現実に対して何かを言わんとすれば、詩学や美学に浸りきってきたこれまでの怠慢がバレてしまう。。。てかたぶん、とてつもない問題発言が出たりとか。。。


「あたりまえ」とかいうのもかなりイタいやろけど。


というわけで結論。


サッカー雑誌、やスポーツ雑誌では全然にならなかったけど。。。


サッカーの詩学と政治学

サッカーの詩学と政治学

てか、


観戦日記になってへんし。。。


また後日。