無縁ではないので。

2008年10月 6日 (月)
「平和」を棚にするなら

現在、ジュンク堂書店新宿店7Fで、「平和の棚の会」による「争いと差別のない暮らしへ」というブックフェアが開催されています。朝日新聞08年 10月5日付東京版によると、「平和の書棚 発進/新宿・ジュンク堂/既存ジャンル超えメッセージ/20社連携、600冊ずらり/会を発足 広がり期待」(ウラゲツ☆ブログより引用)なんだそうです。


こちらには、フェアに関するpdfファイルもあります。
http://www.junkudo.co.jp/definition_of_peace.pdf 


ひとつのテーマをもとに版元が集まって、販売促進をかける動きはよいことだと思います。また、テーマに注目した書店が、集まった版元の本でフェアを仕掛けることもよいことだと思います。


いずれにせよ、「どんな版元が集まっているのか」や「どこの書店がやっているのか」も重要なことですが、何よりも「何をテーマにしているのか」が重要であることは、いうまでもありません。


「平和」というのは、マスコミに取りあげられやすく、世間からの注目度も高いのかもしれません。「平和」がだめだという人も、「平和」に文句をいうひとも、そんなにいないと思いますから。


でも、私は「平和」という言葉に、偽善的な響きを感じずにはいられないんですよ。「平和」っていっていれば、とりあえずいいじゃん、とか。「平和」について考えて、いいことを考えているような気分になろう、とか。


上記のpdfによると、「衣食住・人権・福祉・ジェンダーなどで差別されず、命が脅かされないこと」を「積極的平和」というとのこと。さらに「戦争や紛争はもちろん、ニートやDVやジェンダー差別もパワハラも、すべて『平和』の問題です」という但し書きもあります。


おいおい、そんなに風呂敷を拡げてだいじょうぶなのかよ……。まあ、いろんな版元が出しているさまざまなジャンルの本を、「平和」で結びつけてセット売りするのだから、これくらい風呂敷を拡げるのは当然なのかもしれませんね。


しかし、この風呂敷を拡げた「平和」にも、私は偽善的な響きを感じます。その理由は、世の中が「平和」になったらいいなと思いますが、そう簡単には「平和」にならないと私が思っているからです。また、下手に「平和」を求めすぎると、「平和」になったけれど強制や締め付けの強い社会になったりするかもしれない、とも思っています。


まず、家庭を見てみてくださいよ。「平和」な家庭なんて、いったいどれだけあるのでしょうか。「夫婦仲よく」とか「夫婦ともに浮気はしない」ような幸せ家庭が、どれだけあるんでしょうか。


逆に、「夫婦の不仲が子どもに影響しないようにする」とか「家庭を維持するために、夫婦仲が悪くても離婚しない」、「子どもを育てあげる目的で、仲の悪い夫婦が離婚を踏みとどまって同居する」、「家のローンがあるし」、「親の世間体があって別れられない」という、あまり「平和」じゃない家庭のほうが、圧倒的に多いのではないでしょうか。


家庭の「平和」も守れないのに、日本や世界の「平和」を語るなよ、とは言いません。でも、家庭の「平和」も保てないのに、日本や世界の「平和」が保てるとは、どうしても私には思えません。だって、日本にしろ世界にしろ、「人と人」や「国と国」との関係性を支える法や制度をつくっているのは、しょせん家庭に属する人間(独身者だって、自分の親やキョウダイがいます)なんですから。


だから、「平和」などを求めるのではなく、いろいろあるけど、どうにかこうにか誤魔化しながら成立させている「かりそめの平和」を求める程度がいいんじゃないかと思ったりします。


ようするに、風呂敷を拡げて「平和」などというよりも、もっと足下のレベルにある「家庭」を見つめるほうが、世を「平和」にすることについて有効な答えが得られるような気がするんですよ。だから、書店に「平和の棚」をつくっていただくのなら、まっさきに家庭の「平和」を考えられるような本を取りそろえたらいいんじゃないか、なんて思ったんです。で、そうした本を読んだうえで、「平和」は無理だけど、「かりそめの平和」ならいけるかもね、などと議論できたらいいなあ。


最後に。こういうことを書くと、所在不明な方からのネガティブ意見が出ると思います。いまは新刊の作業で多忙につき、このエントリーはコメントを解放いたしません。腹が立って仕方のない方は、「会社案内」に記載しているメアド経由で連絡してください。あしからず。


ttp://sofusha.moe-nifty.com/blog/2008/10/post-d9b0.html#more


もっと本読もうよ…。

例えばこれとかさ。

民主主義への憎悪

民主主義への憎悪