[アート]没後10年 麻田浩展 @国立近代美術館を振り返ってみる。


あかん、やっぱやめ。<del datetime="2007-09-16T04:22:11+09:00">ほとんど予備知識なしに出かけていった麻田浩展ですが、なかなかよろしかったです。国立近代美術館のは地味な企画が多いものの、とても示唆に富む優れた企画展を送り出しているように思います。特に道を挟んで反対側で行われているものと比べると特に。*1

そんなに絵画を読むような知識はてんでないけれど、すこしばかり感想を書き留めておこうかと云々。と言っても雑感のみだけど。

まず感じたのは、あくまで後から言えることではあるけど、自ら命を絶ったというのが何となく納得できた。んで、非具象的な初期作品は別にしても、非常に神学的な何ものかがあるということが強く感じられた。何となく、「マルクス主義神学」と言われるベンヤミンを連想してみたり。

麻田浩の作品には非常に一貫した、定型的な主題が組み込まれているように感じた。1つは「自然」(≒地、大地、水、水滴)かな。その「自然」には時々、格子状の模様や溝といった規則的な模様が刻み込まれたりする。規則的な模様を刻み込むことで、自然の規則や秩序をより強く印象づけよられるような雰囲気。

んで、もう1つは「文明」(≒道具、建物…etc人工物もろもろ。鳥の羽根も?)だろうか。作品の上に描き出される「文明」は、どこかがらくたチック。用済みで、意味もなく、ゴミのように捨て去られるものとして描かれているように感じられた。キャンバスの上で、「自然」と「文明」は鋭く対立する。

「自然」は厳しい。「文明」は「自然」を前提にすることでしかキャンバスの上には存在できない。でも、そのときには既に、がらくたと成り果てている。格子模様の溝の間にゴミのように詰め込まれ、あるいは溝の中を流れる水に押し流される。「自然」に対して「文明」は常に、廃墟となるよう運命づけられているかのように。希望は、その廃墟が後景に退いた後の「自然」に見出される。*2


自然」の秩序を表し、「文明」の運命を示す、そんな意味での「神学」。

で、ここいらで一息。

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使は、彼が凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼はひろげられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。

かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフ(破局)のみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積み重ねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。

たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。

強風は天使を、かれが背を向けている未来の方へ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは(この)強風なのだ。

今村仁司ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』(岩波現代文庫) 

進歩という強風が吹きすさぶ中、すぐ足元から過去が始まり、瓦礫を積み重ね、破局を繰り返す。何か意味あるものを取り出し、組み立てようとしても、忘却(強風)の力がそれに勝る。歴史の表層の下にはおびただしい瓦礫が、見出される機会を得ずに積み重なっていく。うん、まさに「マルクス主義神学」(笑)。

麻田浩の作品でも、瓦礫は重要な位置づけにあると言えるだろう。「文明」は途端に瓦礫へと変化する。「文明」の営みは、絶え間なく瓦礫を生み出すことであることは、強く意識されていたのではないか。しかし、ベンヤミンとは決定的に異なる点があるようにも思われる。それはおそらく「自然」だ。

麻田の場合、破壊と再生の間には「自然」による浄化が位置づけられている。瓦礫は積み重ねられない。瓦礫の下から「自然」が現れ、その秩序が一旦すべてをリセットし、ゼロからの出発点が見出される。「自然」の秩序の下で、破壊―浄化―再生を繰り返す神話的な運命論。作品を生み出すことはおそらく、「自然」のついての神話や説話であることが目指される。

しかし、その「自然」もまた、人間が描き出したという意味では「文明」的な産物でもある。ベンヤミンの場合、瓦礫がひたすら積み重ねられる。忘却は「自然」力ではなく、瓦礫を積み重ねる歴史の力によって起こる。神話的ではなく、神的。秩序もくそもない。「自然」が顔をのぞくどころではない。むしろ、人間の観念を投影すると言う意味で「自然」もまた、歴史の表層にすぎないのかも。

ベンヤミンは逆説的に、瓦礫にどことなく希望を寄せているようにも思われる。表層的なものとは違う何ものかという意味で。掘り出したり、見出したり、拾い上げたりするまではいかなくとも(埋もれているし)、どことなくその存在を感じさせ、表層とは違う何かを経験させる隠れた力。*3ひたすら瓦礫を積み上げる絶対的で破壊的な力は同時に、どことなしに希望を内在させる。

*1:アメリカ人はテカテカのアクリル絵の具の絵しか描けないわけではないこと、印象派の絵画を(財力と好景気にものをいわせて)収集しまくったという点しか見えてこなかった気が。買い集めた絵画がアメリカでどう受容され、さらにその影響がアウトプットされたのか、それにもう少し重点を置いたほうがよかった気がする。アンドリュー・ワイエスの絵画も来てただけに残念。手を変え品を変えで印象派だけをフィーチャーしてもね…。

*2:題名を忘れたけど、希望や再生を謳った作品は、ガラクタから地表へと視点を移しながら、全体の雰囲気が明るく表現されるものだった…、と思う(汗)。ほら、何か黄色っぽい作品(←ドシロートまるだし)。

*3:遊歩者(フラヌール)とか…。