ブラック・アトランティック

ブラック・アトランティック―近代性と二重意識

ブラック・アトランティック―近代性と二重意識

ブラック・アトランティック 近代性と二重意識 [著]ポール・ギルロイ

[掲載]2006年11月26日
[評者]山下範久北海道大学助教授・歴史社会学
■近代史の隅々に生きていた黒人たち


 標準的な世界史のなかで、大西洋は、いまもって近代の揺籃(ようらん)の地である。大航海時代の筆頭に挙がるのは常にコロンブスであり、産業革命フランス革命アメリカ独立革命も、みな大西洋で起こった事件である。少なくとも19世紀に至るまで、近代史を語ることは、大西洋史を語ることとほぼ同義である。


 ここにヨーロッパ中心主義の匂(にお)いを嗅(か)ぎつけるのは、いまではむしろ常識的な話だ。近代はヨーロッパの白人だけを主人公とする物語ではない。近代史をグローバルな視野から書き直す試みは、現に盛んである。

 考えてみれば、そもそも大西洋自体がヨーロッパ人の海などではなかった。近代の大西洋は奴隷貿易の海でもあり、そこで展開する近代史の隅々に黒人たちが生きていたからである。さらにその黒人たちは、「黒人たち」と単純に一括(くく)りにできるような存在ではない。たとえば、ガーナの黒人、アメリカの黒人、ハイチの黒人、イギリスの黒人は、それぞれ異なる文脈に埋め込まれていたからである。


 言われてみれば当然の指摘ながら、このことを系統的に論じ、それを踏まえて世界史全体の書き換えと、近代概念そのものの再定義とを迫る本書の衝撃は凄(すさ)まじかった。


 本書は、読み書きのできる白人の男性という、自己のアイデンティティーの一貫性に何の疑いもない抽象的な主体を前提とした啓蒙(けいもう)の概念を、全編にわたって完膚なきまでに打ちのめす。啓蒙のプロジェクトは、そこから排除されるひとびとのカテゴリーを作り出すことで成り立っていたのだ。著者は、その排除されるひとびとのカテゴリーに囲い込まれた黒人が、いかにして、その啓蒙の論理の矛盾を突き、その論理を逆手にとることで自らの解放を目指したか、その多様な戦術(特に読み書きの能力を身につける機会を奪われた彼らが、音楽という手段をいかに創造的に用いたか)を描き出す。


 そして同時に強調されるのは、そこにとりついて離れない不安である。自らを排除する論理を逆用して自らを解放する戦術の可能性は、逆に自らを解放する論理に、自らを疎外する契機が潜んでいることを示唆するからだ。


 この不安は、突き詰めると、決して「黒人たち」に固有のものではなく、むしろ啓蒙のプロジェクトそのもの、近代そのものにつきまとう不安である。近代に生きる人間は、潜在的に、誰もがそれぞれのしかたで「黒人」、つまり排除されるカテゴリーに囲い込まれる危険を負わされた存在なのである。


 新しい問題設定を切り開く作品の常として、本書は長らく、熱狂的な賛辞とともに、当惑や拒絶にもさらされてきた。あたかも秘教の経典であるかのように、本書を敬して遠ざける向きもいまだに見受けられる。しかし原著刊行から13年の時間を経て、本書の問題意識はずいぶんと当たり前のものになった。実際、よく練られた良訳を通して、著者の議論に再度接すると、むしろその論旨の明晰(めいせき)さに吸い込まれるような思いがする。文化研究の原点を再確認する好機として、気負いなく読みたい作品である。(11月16日朝日新聞朝刊)


音楽雑誌の盛んな反応に比べたらいささか遅れた感が否めないけど、ようやく全国紙にも書評が掲載。


聖パウロ

聖パウロ

多/他元主義に対する普遍性の再考が、カトリック創始者使徒パウロをモチーフに描き出される。てか、やっぱりムズい…。