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フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズは管理(コントロール)社会の権力やシステムがやることは「家畜化」であるとはっきり言っていて、なおかつ「新しいもの」に無闇に引っぱられる感性や市場を先取りしてふるまう思考を痛烈に皮肉っている。ドゥルーズは文字と映像/音声の対立に関してこう言っている。

 「文字文学が一方にあり、もう一方に音声と映像があって、そのどちらかが選択されるわけではないのです。創造をおこなう力(これは音声と映像にも文字にも含まれている)と、家畜化を推進する権力のあいだで選択がおこなわれるのです」(『記号と事件』、河出文庫、二六四頁)

 このすぐ後で、ドゥルーズは今後も活字や文学がきちんと条件づけられていなければ映像や音声がゆたかな創造に向かうことはないと断言し、さらに市場(マーケット)と迎合する文化空間には抵抗していこうと述べている。市場とタグに仕切られた世界はとりあえず便利に使いこなして、ほんとうに愉しくとんがったことは別のところに開いてみる感じかな。
 といってドゥルーズは消費社会を全面否定するのではない。彼は「家畜化を推進する権力」、つまり口を開けて待っていれば権力やシステム、市場が何かと世話をやいてくれ------アマゾンがあなたの嗜好を追っかけていろいろオススメしてくれるように-------自分の手で何かをしなくてもことが足りてしまうように設計された社会に安住する「家畜」になってしまえば、ほんとうの意味で新しくて面白い創造はありえない、ということを言っているだけのこと。家畜的な消費ではない、もっと贅沢な--------かりに金銭的、物質的に「貧しくても」ゆたかな---------消費と創造は別のところにありうる。
 ドゥルーズと相棒のガタリは「動物になること」(動物に生成変化すること)を彼らの思考のスローガンのようにしていた。ここで言う「動物」は、「家畜化」に甘んじる生などあっさり見かぎって、知と感覚の「メタボルフォーゼ」(弛緩と肥大化?)におちいらないための、それでいて単なる変身とも異なる「メタモルフォーゼ」(変容)に向かっていく思考のキャラクターみたいなもの。
 これは「動物のように自分の力で生き抜こう」みたいなことを言っているのでは全くない。ドゥルーズガタリによる「動物になること」は、同時に「知覚しえないものになること」「機械のように接続しまくること」も意味している。言いかえると、簡単にシステムからは見つからないようにつながり合って接続しまくるマシンのような生を選べ、というふうに読めなくもない。これは中央線沿線とか下北沢とか特定ローカル界隈に拠点をつくるという「オルタナ/草の根」路線とも違っている。むしろ、いたるところにあり、それでいて中心はどこにもない接続ポイントを作りまくろうぜ、ということか。マイナーにもメジャーにもあらわれては消える回路、その繰り返しのコミュニティ?

最後に、その接点のなさの理由を書いておく。

 東さんは『東京から考える』という対談本の前書きで、「自分はポテチを食べながらデスクトップにぬるぬると向かい、コンビニがあれば用が足り、他は事実上いらないと考える人間であり、同じタイプの人に共感し、そのために書く」「郊外の国道沿いブックオフ文化の現実しか、もはやあり得ないことを肯定し、そこに置かれてもぴったり合う本を書く」といったことを述べている。

 ここがまるで接点のない理由である。ぼくはなるべく美味しいもの、身体にいいものを、自分で作って食べるのがすきだし、コンビニは便利だがあそこにおいてあるモノは基本的に人間を貧しくすると思っている(経済的にではなく、感覚的にね)。おまけに「ブックオフ」という空間には入ったことすらない。本買い/読みのジャンキーなので、かえって「掘り出し物」が多そうで怖くて入れないのである。
 郊外型の書店やコンビニ、アウトレット/ショッピング・モール、「日本語環境」に特化したネット文化が、どうも人々のリテラシーや教養、思考力をダメにしているように考えている人間なので、「郊外の国道沿い」の店で売っているモノとつきあわないように生きているし、若い学生たちにもそう薦めている。

   東さんは「適当にぬるぬる消費者をやって、小さくハッピーに生きる」道を推奨し、これが逃れられない「動物化するポストモダン」であるという主張をしている。だが、これはぼくの用語だと「家畜化するプレ/エクスモダン(前近代/近代の外)」ということで、「おい、そんな家畜でいいのかよ。もっと世界には楽しい/ヤバい/エグいこともあるかもよ」と学生たちにはよく言っている。
 でも東さんがどう思おうと、どのように彼の評論で述べようと、もはや批判するとか、非難する気は全然ない(講義では批判的にふれることもあるだろうが)。端的にお互いに無関係な存在と思うのみである。

 彼は自分の世代の論者たちについて言う。「何が政治で何が政治じゃないのか、何がアクチュアルで何がアクチュアルじゃないのか、それが分からない」のだ、と。つまり、もはやイデオロギーも物語もない、右翼も左翼もない、というわけだ。半分くらい、わかるような気もするが、やはり所詮こちらはオールドタイプのせいか何がアクチュアルで政治的かがわからない、そういうことが思考の動機にない、という気分が全くわからない。「イデオロギー/物語は終った」という言いかたこそ「イデオロギー/物語」のような気がする。
 しかし、その「わからないアクチュアリティ」に向かうことが「考えること」「批評すること」のはじまりであるような気はする。

 ずいぶん長く書いたが、これが過去十五年近くにわたる東浩紀さんとぼくのすれちがいの模様である。険悪な関係も何も、近い業界にはいるけれど、単に互いに全く無関係な情動と思考で生きている。険悪というより、お互いにエイリアンみたいなものだ。

 そのことがよくわかる例を一つ。いささか暴露話めくが、ずいぶんtwitterやラジオ番組などで東さんもぼくの名前を出しているらしいので、これぐらいは許されるだろう。

 今から一五年以上前の東さんがtwitterでふれていた研究会の夏合宿、夕方に台所でぼくはその晩の飲み会のつまみの仕度をしていた。いろいろ素材を仕込みながら、ぼくは近くにいた東さんに言った。「ねえ、きみ、そのニンニク一カケとってくれる?」と。
 東さんは「一カケってこれですか?」とまるごと皮のついたニンニクをよこしたのである。
 「きみのニンニク一カケってこれなのかよ!」呆れるやら、怒るやらでつい大きい声を出したかもしれない。「二十歳すぎて料理もしたことないのかよ」とまで言ったかなあ。
 ぼくは料理(家事)のできない人間、男、とりわけ研究者やもの書きのことを基本的に信用しない。無茶苦茶に狭隘な視点だけれど、これも世界や宇宙に対する関わり方の一つだ。そう、あの日から、ぼくは東さんとすっかりすれちがっていたのだろう。