革命を語るへーゲル?「ベルリン、僕らの革命」

もう少しまともに考えて行動できんのか?なぜに登場人物は揃いに揃って「バカ」なんやろうか。主人公は「革命」の理想に燃え、行動する。金持ちたちに対する「教育者」として、屋敷に忍び込み、家を荒らし、金持ちたちを懲らしめようとする。要はチンケな嫌がらせにすぎない。物は盗らないということだけでわずかに、「革命」のかけらがつなぎ止められている。


主人公は「革命」という言葉の魔力を信じて疑わない。教条的にその言葉を信仰する。そこには、レーニンが行ったような、なぜ革命が必要なのかという問いや、ウェーバーのような資本主義についての問いかけはない。ただ、「革命」だけが漂っている。別に完璧でなければ革命ではないなどと言うつもりはない。でも、なんで革命に至るかの必然性、ある時・場所で起こってしまう偶然性くらいは突き詰めてほしかった。


主人公は友人の彼女の私怨のために「教育者」として金持ちの家に忍び込む。そこにはまた、「革命」という動機が無惨につなぎ合わされる。彼らは増長し、足が着くような物を忘れ、証拠隠滅のために再度忍び込み、見つかり、結局、その金持ちを誘拐する。いくら若いと言ってもマヌケすぎだろう。これには腹立たしさを越えて滑稽さまで覚えた。端役として登場する金持ちたちも上っ面だけセレブ志向の魅力なき俗物ばかりだ。ただし、主人公たちに誘拐される金持ちは、この映画で唯一のまともな登場人物である。


彼は68年の経験者であり、かつての活動家であり、今では財をなす富豪である。日本で言えば団塊の世代であり、いちご白書を地で行く人物である。彼は自らの経験を語り、かつての自分の如く「革命」に邁進する主人公たちに敬意を表する一方で、その宿阿を語ってみせる。主人公たちは恋愛関係のもつれから内部崩壊を起こし、富豪も主人公たちにかつての自分の姿を見いだす。「革命」はかつてのように和解で終わるのである。


主人公たちは再び日常へと戻り、「教育者」が出現して物語は終わる。「革命」が社会が必然的抱えるものとして、日常の中に配置される。本作における「革命」とは、常に社会が内包しているものであり、必要悪的なものであり、それと社会とが出会い、対話し、和解することで社会はまた進歩していく。そうした予定調和の中に「革命」は囲いこまれている。


そうした予定調和が優先するゆえに、主人公たちはあまりにマヌケに、金持ちたちは魅力のない俗物として描かれる他ない。「革命」と出会い、自らの高潔さを回復した社会を象徴としての富豪が、この物語の勝者である。「革命」はへーゲル的な弁証法の中に取り込まれ、もはや社会の活力くらいの役割しか果たしてはいない。ポスト・モダン時代では、革命なるものはもはやこんなものとしてしか存在できないのかもしれない。


しかし、そうした予定調和の中の「革命」は、その言葉の魔力を盲信し、必然と偶然の省察を欠くことで成り立っていることに注意すべきなのではないか。予定調和の中の「革命」などはもう存在していないかもしれないし、革命は「革命」の形をとっているかもわからない。革命と名前がつけられるかどうかもわからないかもしれない。とりあえずは「革命」を拒否してみることから始めるべきだろう。そうしてみて革命が存在しないとは限らないのだから。そして、革命という言葉へのこだわり自体を疑ってかかるべきだろう。


一概には言えないし、失礼な言い方かもしれないが、この作品から滲み出てくるのは、理系の人に革命はできない、ということだ(嘘)。でも、主人公たちを見てると、そんな風に見えてしまう…。


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