今年もまたあの日がやってきた。

俺にとっては不眠不休の最終日だった1月17日。もちろん、特に神戸では震災が思い起こされる日で、毎年様々なイベントが開催される。現場に居合わせたわけではないけど、かなり離れているにもかかわらず、自宅が揺れた記憶がある。いつのまにか12年。早いね…。


これだけ年月が経てば当然のことながら、地震の痕跡を見つける方が難しい。12年という期間は、神戸が都市としての機能を回復して、たいていの多くの人たちが日常どおりの生活にもどるのに十分な期間だったということなんやと思う。空港まで出来てもうたし。


しかしこんだけ月日がたって、地震の跡を見つけるのが難しくなったくらいやのに、今もなお、震災は神戸について話すのには欠かす事のできん話題であり続けてると思う。てか、その話題がスルーされたことはほとんど記憶にない。これはみんな経験してはるんと違うかな。というよりも、震災の話題や記憶や経験が、積極的に求められてる気がする。それが一番表れてるのが1月17日やないやろか。


例えば、神戸市の人口の3割が震災を経験していないということとか、市職員の何割かが職員として震災を経験していないとう話題とかが、新聞で大きく取り上げられる。それとか、震災時と比べて、地域のまとまりが弱まったという話題がTVで放送されたりする。


月日が経てば当然、実際に経験してない人が増えていく。いつかは経験者は消える。そのごく当然のことが注目される。あるいは、完全に日常生活が破壊されてしまった状況だったからこそ、まずはこの状況を生き抜くために、地域のまとまりが生まれた。


外岡秀俊地震と社会』に詳しく描かれているけど、最悪の状況だからこそ、みんなが同じ目的で1つにまとまって一致団結したユートピアができた。そして、みんなが日常生活に帰っていくにつれて、それぞれの都合や利害の中で、そういうまとまりは消え去っていった。でも、その今ではもう無理なはずのことが求められている。こうやって取り上げてみると、神戸という街から震災についての話題や記憶、経験が失われてしまうことに対して、危機感が示されているのが、何となく見えてくる。


よくよく考えてみると、神戸が神戸であるためには、震災が欠かせない。オシャレでモダンでエキゾチックな港町神戸を破壊し、繁栄を震災が奪ったからこそ、オシャレでモダンでエキゾチックな港町神戸の繁栄が「復興」される。震災を神戸にとって不可欠な経験や記憶として扱うことで、失われたオシャレでモダンでエキゾチックな港町という姿が、神戸本来の姿だと広く語られるようになり、その姿を取り戻すことが目指される。震災を理由にしながら、オシャレでモダンでエキゾチックな港町として神戸が作られていく。


実は、神戸は80年代以降、円高等の影響で既に衰えを見せていた。もっとさかのぼれば、戦争中の空襲で神戸はほぼ焼け野原になってしまったし、戦争の激化で居留地の外国人はみなその時期に退去してしまっっている。旧居留地のシンボル的存在の大丸は、かつては飾りっ気ゼロでのっぺりとした建物だったのに、「震災後」には、「旧居留地の雰囲気に合わせて」、装飾をふんだんに使った、全く別のビルが建てられる。こうして見てみると、オシャレでモダンでエキゾチックな港町は震災の後に、そのイメージに合わないものを切り捨てながらつくられてきたもんなんやないかな。


記憶や経験は大切や思う。ただし、それをきっかけにして、何が神戸で、何が神戸ではないと決められ、どういう神戸の姿が作り出されるかを見極める意味で。それと、記憶や経験のないにもかかわらず、震災という出来事を感じてしまう瞬間がどこかにあるという意味で。


区画整理で細切れになった番地。未だに再建がらみでもめているマンション。あるいは、神戸という街とって望ましいとされる姿で建てられる建物。そういう現実を見てみれば、震災って一体何で、今は何のため、誰のためにあるのかという問いかけは避けられんし、だからこそ記憶や経験が大事なんやないかな。




地震と社会〈下〉

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